森公章

実際に遣唐使とともに留学した者の間でも満足な発音・会話が出来ず現地で長期間生活する上で必要な漢語の習得に苦労する者が多かった。 天台宗を日本に伝えた最澄は漢語が出来ず、弟子の義真が訳語を務めた。 橘逸勢は留学の打ち切りを奏請する文書の中において、唐側の官費支給が乏しく次の遣唐使が来るであろう20年後まで持たないことと並んで、漢語が出来ずに現地の学校に入れないことが挙げられており、最終的に2年間で帰国が認められている。